小川郷太郎の「日本と世界」
ただいま山下泰裕理事長からご紹介をいただきました小川郷太郎です。よろしくお願いします。私は昨年まで、約40年にわたって外務省に勤務しました。外務省では外国と日本の勤務を繰り返しながら勤めますが、私の場合、海外での勤務は40年間のうち23年あまり、国にして7カ国ほどです。

これまで、海外でも国内でも様々な形で柔道に携わってまいりましたので、今日は、そうした私の個人的な体験や考えてきたことなどを話させていただきたいと思います。

とは言いましても、何分にも私の柔道経験は限られておりますし、まだあまり日本の柔道界の事情を知りません。特に今日はこのように大勢の柔道の先生方にお越しいただいており、いささか緊張を覚えております。

そのようなわけで無知なことを申すこともあるかとも思いますが、どうかご容赦ください。また、いろいろと違っている点などは、後ほどご指摘いただければ幸いに存じます。

柔道との出会い

私が柔道を始めたのは、高校3年生の時です。それも、アメリカの高校に1年ほど留学の機会を得たので「日本らしいものを身につけて行こう」と、出発まで半年を切った頃になって、当時、通っていた静岡高校の柔道部で練習を始めたような次第ですから、スタートとしてはかなり遅い方でした。

それまでの私はといえば、小学校から中学校までは、ずっとプロ野球選手になることを夢見る野球少年。「絶対に巨人に入るぞ」と子供ながら必死にやってきたわけですが、それが中学校の頃に挫折して、心機一転、何かやろうと思っていたところ、アメリカに行きたい思いがどんどん強くなり、英語を一生懸命に勉強して、幸いに得たのが、1年間の留学の機会だったというわけです。

そんなわけで、半ば付け焼刃の柔道と共にアメリカの高校に留学しました。現地で何度か柔道をやる機会があったものの、白帯だったもので格好もつかず、それならせめて何か運動しようと、現地の高校ではレスリング部に入りました。私は小学校時代から折りにふれて相撲をやっていたものですから、アメリカ人より足腰が強かったようで、すぐにレギュラーになれてそれなりに面白い経験でした。

1年経って、アメリカから帰国し、その後東京大学に入りました。アメリカンフットボールやら野球やら、何をしようかとさんざん迷ったのですが、結局、始めたばかりの柔道で「どうしても黒帯を取りたい」と柔道への思いから、東大柔道部に入部して、本格的に柔道を再開しました。

その後、卒業して外務省に入ってからも、日本にいる時には母校の柔道部の寒稽古に参加したり、外務省の近くの警視庁道場で助教の先生の胸を借りて稽古をしたりと、いろんな形で柔道を続けてきました。

外交官活動を支援した柔道

海外勤務では、延べ7年半にわたる2度のフランス勤務をはじめ、フィリピン、韓国、カンボジア、デンマーク、それにゴルバチョフ時代の旧ソ連などに赴任し、ハワイでは総領事を務めました。

どこの国に行っても、柔道が浸透していることの意義の大きさを実感し、そのたびに私自身、柔道をやっていて本当によかったと思ったものです。柔道では稽古を通じて礼儀を身につけ、相手に対する敬意、あるいは平常心や忍耐力というのを養えましたし、柔道を通じていろんな方と交友関係を結ぶことができたからです。

フランスでの柔道体験

最初に外国で柔道をやったのは、1969年に赴任したフランスでのことでした。

赴任して最初の2年間は外務省の研修生として大学に入って勉強するのですが、私は夏に赴任したものですから、大学の新学期が始まる前にまずフランス中部のツールという町に3か月ほど滞在し、外国人向けの語学講座を学びました。

私はその語学学校に学生登録するや、すぐにツールの町で柔道場を探しました。そして町の中心部にひとつ見つけて、夏休みになっていましたが道場主を探したところ、ジャン・クロードという二段の気安い男が出てきて大歓迎してくれました。「せっかくだから練習しよう」ということで、夏休みにもかかわらず仲間を呼び集めてくれて稽古を始めたのですが、いざやってみると、ジャン・クロードは「大車」なんかかけたりして、以外に強い。道場の仲間ともすぐに親しくなり、柔道の稽古以外にもしばしば自分たちの家に招いてくれたり、いろんなところへ連れて行ってくれたりもして、ずいぶんとお世話になりました。ツールという町は城もあって風光明媚な場所だったものですから、ツールを思いきり満喫した夏でした。

その後、いよいよ大学が始まる時期になりましたのでボルドーに移り、それから2年間ボルドー大学に通いました。

ボルドーでの思い出は、私の柔道にとってもたいへん貴重で意義深いものとなりました。大学には柔道同好会があり、アフリカから来た留学生が中心になって活動していましたが、それがなかなかに面白い男で、いろいろと話を聞いてみますと、彼の国には柔道の黒帯を持っているのが二人しかいないという。彼は初段でそれほど強くはなかったのですが、それでも何年か後のミュンヘンオリンピックでは母国の代表として出場。そのようにいろんな人との交流もたいへん面白く貴重な経験でした。

その当時からフランスには全国いたるところに町道場がありました。どんな小さな村に行っても、道場が必ずひとつはある。ですから私はいつも車の中に柔道衣を入れて、出かけた先で道場を見つけては訪ね、そのたびに大歓迎を受けて一宿一飯に困らないほど。そんな楽しい思い出が、たくさんあります。

日本では、柔道というと大学とか警察とか実業団でやっている方がほとんどでしたが、フランスでは町の道場に小学生から初老の男女まで、様々な職業柄の人が通ってきておりました。大学教授や医者といったインテリもいれば、屈強な石工とか大工さんみたいな人たちもいて、いろんな人が交じり合って柔道をやっていました。

その中には妙齢の女性もいて、男女一緒に稽古をしていたものですから、私はフランスで初めて女性と稽古をしました。それまでは女性と組んだ経験はありませんし、私も若かったものですから、どうしてもモジモジしてしまい、立ち技くらいなら何とかなるのですが、寝技になるといろんな妄想が出てきたりして、なかなか押え込みになると縦四方やら横四方だというわけにはいかない。そうしたら相手の女性の方から「もっとしっかりやってください」と言われたりして、まあ、そのおかげでフランス人の女性とも知り合えた役得もありました。

フランス柔道興隆の背景

フランスの柔道人口は今に至るまでたいへん多くて、50〜60万人もいるといわれています。何故そんなに柔道が盛んなのか。色々なフランス人との交流を通して私なりに推定した理由がいくつかあります。

まず、柔道の技の持つ物理的な合理性が、理屈好きなフランス人に受け入れられたことが上げられるでしょう。フランス人はとても論理的な人たちですから、柔道の技を説明する時にも「相手を崩し、それから自分の体でこのようにして投げる」といった論理的な説明が頭にスッと入るのだろうと思います。

もう一つの理由は、フランス人は外国の文化に好奇心が強く、特に日本の武士道や禅に関心があり、柔道の精神性にもたいへん関心を持っていること。私の滞在中も、彼らから日本の精神性に対して熱心な質問をたくさん受けました。ボルドーの柔道仲間には、インド哲学を専攻してインドで何年も修行した経験のある人もいて、かなり年配の方でしたが、柔道の精神に関して自身の言葉で熱く語り、「柔道の精神」というとても良い本を書いたりしておりました。 加えて、そのように熱心な関心を支えるかのように町道場がたくさんあり、日本のようにいつも激しい訓練をするわけではないので、大勢の人がある意味では気軽に柔道を楽しめる環境が整っている点も大きいと思います。

フランスでの先達の努力に学ぶ

そのように活発なフランスの柔道の背景として忘れてはならないのは、フランスで柔道の普及に貢献した日本の先生方の存在でしょう。

皆様もご存知だと思いますが、その草分けには川石酒造之助先生がおられました。兵庫県姫路のご出身で、早稲田大学を出た後、1935年に渡仏。論理的なフランス人にどう柔道を説明していくかに工夫を凝らされ、巴投げや背負い投げなどの技を手技、腰技、足技などに分類し、例えば「大外刈り」なら「足技何番」というように技とその番号をつけて説明したそうです。

そうした論理的な説明が、フランス人の頭にはサッと入ったのでしょう。私が赴任した年に川石先生は亡くなられたそうですが、柔道をやるフランス人はみな「川石方式」の話をしていましたので、とても浸透していたのだと感じました。川石先生の功績については、フランス文学者の吉田郁子さんの著書『世界にかけた七色の帯 フランス柔道の父=川石酒造助伝』(駿河台出版社)に詳しく書かれています。

二人目の先生として、粟津正蔵先生がおられます。粟津先生は1950年に渡仏以来、現在もフランス柔道連盟に所属して精力的に指導されております。

三人目は、道上伯先生です。道上先生は京都の武道専門学校のご出身で、戦争中は中国に行って東亜同文書院というところで柔道の指導もされた方ですが、1953年にフランス柔道連盟に請われて渡仏し、2002年に亡くなられるまでボルドーを拠点にして、実に半世紀以上にわたって柔道の指導にあたられました。

フランスのみならず毎年のようにアフリカを訪れて柔道を広め、オランダでは柔道最高技術顧問になって、かのアントン・ヘーシンクらを指導されました。1964年の東京オリンピックで日本の神永昭夫選手がヘーシンクに敗れましたが、以前から道上先生は日本の柔道を見て「これでは日本の柔道はやられるぞ、もっとしっかりしなくては」というようことを常日ごろからおっしゃっていたようです。

その意見を東京オリンピック直前に『文芸春秋』に寄稿したのが、講道館への爆弾宣言だというような受け取られ方をされたりしたこともありました。道上先生についても『ヘーシンクを育てた男』(眞神博著、文芸春秋社)という本が出ています。

私はたまたまボルドーで道上先生の道場に通う機会を得て、柔道のみならず色々な人生の薫陶を受けました。道上先生は柔道の技量のみならず、柔道に向う厳しさが真の侍の姿を彷佛とさせ、そういう面がまた多くのフランス人を惹き付けたのでしょう。

つい2年ほど前も、道上先生が開いたボルドーの道場が50周年を迎えていろんな行事があるからと、かつて一緒に柔道をやった仲間が私をボルドーに招いてくれました。今年はその彼らが道上先生の7回忌にフランスからわざわざ来日し、先生の出身地である愛媛県の八幡浜まで行って道上先生の法要に出席。そのように、柔道のいわば本心や恩師を慕うような気持ちをまだ持ち続けているフランス人がたくさんいることに、私はあらためて感心した次第です。  

いずれにせよ、このような先生方が何十年間にもわたってフランスに張り付いて柔道の指導をしてきたことが、フランスでの柔道普及に大いに貢献したのは間違いないでしょう。

また、2007年にはフランスの工学系エリート大学「エコール・ポリテクニーク」から、60人もの柔道部員が日本で柔道と日本文化について研修するために来日。フランスのエリート校で何十人という柔道部員がいること自体が驚きですが、彼らが日本の試合を見学した後に「ヨーロッパで見るよりもずっとしっかり組み合って柔道をやっている」「寝技に入ってもすぐ立てというのではなく、一定の時間をかけている」「一本で決まる試合がヨーロッパより多い」など、色々な感想を述べました。そして「日本の方が正しい柔道であり、世界の柔道をもっとこのような方向に持っていくべきではないか」との意見を述べてくれました。

このようにフランスは柔道の層が厚いこともあり、正しい柔道の実現について熱心な人たちが多いという印象を持っています。私にしましても、言葉の壁を超えて柔道を通じての友人がたくさんできましたし、いろんな交友関係が広がって知識を得たりすることが多くありましたので、柔道にはとても感謝しています。

さまざまな柔道お国事情

 

フランス以外の国々でも、いろんな形で柔道をやりました。

旧ソ連に赴任した時には、町道場が少ないものですから国立体育大学を訪ねることを勧められ、多くの強い選手らと稽古をしました。私はもともとそんなに柔道が強くないものですから、ヒイヒイ言いながらやっていましたが、あれくらいのレベルの場所に行くと、日本から来たからといって柔道で勝たなければならないなどといった考えは捨てて、ただただ一生懸命やりました。楽しかったのは、練習の後のサウナなど。さすがにエリート校だけあって巨大なサウナがあり、入ってみると日本で知っているサウナよりも温度が高くて、湯気が朦々と何も見えないほど。そこに、背中まで毛が生えてロシアの熊みたいな人たちが柔道の稽古を終えると、裸で入ってくる。ロシアのサウナは、血行をよくするために木の枝で体を叩き合ったりして騒ぐのも特長なのですが、私もロシア語はあまり話せないなりに仲間に入り、大きな人を捕まえて枝でバンバン叩いて、何かしゃべらなくてはと日本語で「おい、早く北方領土返せ」なんて言ったりして(笑)。相手は「俺になんて言ってんだ?」というものだから、「サウナは暑いね」なんてごまかしましたけれど、サウナの後にも彼らと一緒にお茶を飲んだりして、ずいぶんと交流を深め合ったものでした。

韓国でもあまり町道場がなかったものですから、韓国柔道院といういわば日本の講道館のようなところに出向き、やはり強い選手を相手にきつい練習をしました。

ハワイは日系人が多いので、町やお寺にも道場がたくさんあり、柔道人口も多かったと思います。私の赴任中に全米の柔道ジュニア選手権が開かれましたが、そこでもやはりハワイの選手たちは強かったです。今日はこちらに、ハワイで毎年、何回か柔道の指導をしてくださっている三浦先生もおみえになっていますが、そのような先生方にもハワイにおける柔道の発展に貢献していただいていると実感しています。私も総領事の公邸の庭を日系人のいろんな行事に開放して、時には、柔道のデモンストレーションもしましたし、ハワイで柔道大会が開かれた時にはエントリーもしました。その時の大会はクラスが年齢別になっていて、私の属する年齢のカテゴリーには出場者がいませんでしたので、主催者が状況を察して指名してくれた相手が、なんと30歳を過ぎてほどない柔術の先生。私は日本では柔術というのをやったことがなかったのですが、試合開始に相手がいきなり寝て徹底的にひじの関節を攻めてくる。私も寝技はいろいろやってきましたから、これくらいは耐えられると思ってやっていましたが、何分間も徹底的にひじを狙ってきたのでついにやられてしまい、結局、ものすごく痛くて治るのに半年以上かかりました。ハワイでは、そんなこともありました。  

また、デンマークでは、松前重義先生が創設された東海大学付属デンマーク校の道場でも時々練習させてもらい、付属高校の田中昇先生には時々柔道を教えていただきました。EUと日本の市民交流年の行事のひとつである柔道のデモンストレーションにも参加しましたが、その時にも田中先生に受けをやっていただいていくつかの技を披露しました。

 

またある時には、私が親しくしていたデンマークの合気道連盟の会長の方から合気道の全国大会の折に柔道の演舞をやってくれと言われまして、当時、デンマークの柔道選手権を何年か取っていたトマスベックという人を知っていましたので、彼に頼んで受けになってもらい、私が取になり、私が書いたシナリオを元に他の人がデンマーク語で立ち技やら寝技やら絞め技といった解説をつけながら演舞しました。ちょうど絞め技の時にさっと決まりまして、彼がヒイヒイと咳き込んだりしたものですからかなり迫力があって、観客から拍手喝采がわき起こったという一幕もありました。  

デンマークのように小さい国でも、このように柔道だけでなく合気道、居合い、棒術のように武道をやっている人たちも多く、日本の武道が浸透していることを目の当たりにしたわけです。そうした中で、私は柔道を通じて各国の人たちが日本というものに強くかつまた深い関心を持ってくれているということを感じ、大いに誇らしく思った次第です。

途上国における柔道事情

 

一方、カンボジアやフィリピンなど、東南アジアの国々は蒸し暑いので、柔道をやるのも苦しくて大変でした。私がよく行っていたフィリピンの道場は地下にあって風通しがよくなかったものですから、少し動くともう柔道衣がぬれ雑巾のようになってしまったものです。が、その後のビールはまた格別な美味しさでした。

カンボジアは、ご存知のとおり、ポル・ポトが指導したクメール・ルージュが内戦を起こし、170万人もの人々が虐殺されたといいます。その中には柔道をやっていた人たちも大勢いましたが、虐殺によって柔道の指導者もいなくなってしまいました。私が赴任した時にはもう平和がよみがえっていましたが、柔道についてはまた新しく始めるのと変わりなく、日本から海外青年協力隊員が指導に行っておりました。ナショナルチームを結成して指導を始めていましたが、ナショナルチームといってもまだ柔道経験の浅い若い人たちばかり。道場も危ない場所に狭いのがひとつあるだけで、そこで練習していました。

ご参考までにジャイカ(JICA)のカンボジア事務所からいただいた写真をお見せします。1枚は大変貴重なもので、今から40年あまりも前の1966年、日本で最初の青年海外協力隊員が柔道を教えに行ったときの写真です。当時のカンボジアは平和で繁栄しており、周囲の国と比べても良い状況にありましたから、練習に通っている人がこんなに大勢いたわけです。

それに対して2枚目は2002年に青年海外協力隊員の指導しているナショナルチームの練習で撮ったものです。真ん中にいるのが私で、その右のほうに今日もこちらにお見えになられている講道館の小志田憲一先生がいらっしゃいます。その後ろの中央にいるのが青年海外協力隊員で国際武道大学出身の角本君。小志田先生や角本君のような人材が、いろいろ指導に訪れていたわけです。いずれにしましても、2枚の写真を見比べれば、いかにあの内戦の爪あとがすさまじいか、想像できると思います。  

カンボジアでは国自体がたいへん貧しい中、畳も柔道衣も指導者も不足している状況であらためて柔道の指導が始まっています。それでもみんな真剣に柔道を習っていて、小学生ぐらいの子でも練習のはじめと終わりにはしっかり正座して礼をし、一人ひとり先生のところに来て「ありがとうございました」と言う姿に感銘を受けました。2003年には日本とカンボジアの外交関係樹立50周年の行事があり、柔道の演武などもありましたので、私も出演いたしました。

世界に広がる柔道と 浮き上がりつつある課題

 

以上のように私の体験を通じただけでも柔道が世界の隅々まで浸透していることがよく分かります。それをふまえ、柔道が世界に浸透することの意味や、その結果、どういうことが起こっているのかについて触れたいと思います。

まず我々は、世界には柔道の規律や精神面を一生懸命学び、実践しようとしている人たちがたくさんいることを忘れてはなりません。

次に、そのような国々にはカンボジアのような開発途上国もあり、柔道に関して日本からの人的・物的な支援や協力を求めている国がたくさんあるということです。アジアやアフリカの国々以外にも、中東のように豊かになった国でも指導者を求めている事情は変わりません。

さらに、柔道がその精神性への関心からこれほど世界的に広がりを見せていることを考えれば、日本が世界の精神文化に対してたいへん大きな貢献をしており、同時に友好親善関係に役立っているなど、柔道というものが世界の中で大きな役割を担っているということを知るのも重要です。

また、世界に浸透した柔道の意味合として、国際化によって試合の規則などもどんどん変わり、少しずつ柔道の質が変わってきたという点も見逃すことはできません。このようなものに対して、我々はどう考えていくべきかが、大きな課題になっていると思います。

国際スポーツと外交の類似性

さて、ここで少し話題を変えて、私の40年間の外務省経験から感じている「国際スポーツと外交の類似性」について言及したいと思います。  

国連の加盟国は現在192カ国です。対して、国際柔道連盟(IJF)にはそれを上回る199団体が加盟しています。それを考えれば、外交同様、国際柔道においても文化や考え方が多様な人たちの間の相互理解がなかなか難しいというのも厳然たる事実でしょう。参加者たる多くの国は常に意志を明確に表明して行動し、自己主張を強く打ち出し、時には攻撃的でさえあります。交渉にあたっていろんな駆け引きをするのも、外交と国際スポーツで共通することでしょう。そのようななかで日本の柔道界は例外的におとなしい存在であり、場合によっては取り残されていることもあるのではないかと感じます。日本では「沈黙は金」という考え方がありますが、こと外交や国際スポーツにおいては「沈黙は損」だということも頭に入れておく必要があると思います。

国際関係では「合従連衡」は常に行われておりますから、舞台裏の根回しや駆け引きは重要です。特に国際的なルールを決めたり役員の選挙をやるような場合には、そのための情報収集も大切になるでしょう。影響力を行使しようとすれば、有力な手段はやはりポストの獲得ですし、そのためにどの国も選挙には莫大なエネルギーをかけるのです。

外交においても特に国連の関係では、やはり選挙がとても多く、日本もできるだけ役割をはたそうとしていろんな選挙に立候補するわけですが、それに際しての外務省の作業量は膨大なものがあります。どの選挙も大事だということで、常に外務省の本省から全世界に「必ず日本が当選するよう、相手国を説得せよ」との訓令や指示があります。通常、選挙活動は何ヶ月もかかりますから、説得も一度や二度ではだめ。それも相手の国の上層部に対して、日本が当選することがいかに大事なことかを説得するのです。そこで「イエス」と支持してくれる人もいれば、言葉を濁す人もいるわけで、しかも「イエス」と言ってくれた場合でも、やはり何度も行って確認しておかないと、また別の候補国が来て説得しかねない。

だから、一回の選挙でも、何度もアプローチするのです。それも、一人だけではなく色んな関係者まで含めて回り、いかに日本が入る意味が重要かを盛んに説得します。時には相手からいろいろな条件を出されたりして、考えなければならない場合も出てきます。

いずれにしましても、大変なエネルギーを費やして選挙には力を入れるわけです。それは国際スポーツの世界でも同様だと思いますし、いろんな国が会長や理事のポストを取ろうと同じように努力をしているのが現実だろうと思います。それでも、こと選挙では、超大国アメリカといえどもなかなか勝てないものなのです。そう考えると、ポストを得るためには実力もさることながら、普段から誠意を持って相手と対話し、信頼関係を築くことがたいへん重要です。人のレベルでいえば人柄というのが大事なのと同様、国との関係ではやはり国柄というものもあり、そこでは誠意とか友好関係といったものが大事な要素になっていると思います。

国際化する柔道の課題

 

また柔道に話を戻しましょう。  

かように国際化した柔道については様々な課題があると思いますが、その中から私は3点ほど話させていただきます。  

一つ目は、オリンピックや世界選手権などの大きな国際大会が頻繁に行われるようになり、大きな国際大会では自国の国民からの期待も重圧ですし、また国際化することによってますます商業主義が出てきて、そのスポーツの本質をどうやって維持していくかも難しい課題になってくると思います。それらにどう対応していくかは大きな問題でしょう。  

二つ目は、先述の通り、試合規則の変化によって柔道の内容も変わってきたことについてどう対処するのかということ。よく指摘されるように、体重制やポイント制になったり、柔道衣の袖が狭くなってなかなかつかみにくくなったというような変化もあります。最近、ようやく少しずつ改善されつつありますが、柔道でもタックルするような手も出てきたり、寝技なども私が考えるに、「待て」と立たせる回数が多く、それによって寝技の発展などが妨げられているようにも感じます。そういうものについても、どう対応するかは大きな課題だろうと思います。  

三つ目は、「メダル至上主義の超越」です。つまり、金メダルを取って勝たなくてはならないという要請と、柔道の本質を維持していくということは、どちらかの二者択一ではなく両方とも重要な問題だろうと思いますので、そのバランスを考えなければならないと思います。

柔道発祥国・日本の責務

 

以上のような課題に対してどう考えていくかに際しては、前提として国際化は不可避であることを認識し、その流れに積極的に対応する姿勢が必要だと思います。いわば、大きな力で押し寄せる国際化の波をうまく体捌きして投げるといいますか、日本を有利な方向に持っていくことが大事だろうと思います。柔道がこれだけ広まった背景には、日本への関心や日本の良さに対する好感の高まりがありますから、それを日本にとっての大きな資産であると考え、柔道の「家元」である日本が正しい柔道を発信することによって影響力を増大するチャンスと考えるべきだと思います。  

その際、柔道発祥国・日本としては「メダル至上主義」を超え、正しい柔道を発信していく責務も重要です。柔道発祥国の宿命として、どうしても「勝たなくてはならない」ということも大事になりますが、それがあまりにも大きな要素を占めてしまうと、それ以外の方法には注意が向かなくなる恐れがあります。勝つことも必要ですが、やはりそれ以外のことも考えていかなければならない。  

私自身がフランスでずっと柔道をやっていた経験からでも、体格はさほど大きくはないフランス人でも胸板はたいへん厚く、筋力が強いという印象を持っています。普通に寝技で抑え込んだ形になっても、時々、軽く引っくり返されたりして驚いたものです。そのように、日本人と比べて筋力の強い人たちが世界にはたくさんいるわけですから、それで日本人と同じくらいの稽古量や精神力をもってやれば、日本人より強くなるのは不思議なことではありません。ある程度、そのようなことも受け止めて考える必要があるのではないかと思います。  

確かに柔道に関して日本には勝ってほしいし、勝たなければならないとも思いますが、柔道に限らず他のスポーツでも発祥国がずっと第一位を占めてきたわけではないというこを考えて、万一、負けた場合でもそれを受け止める必要があると思います。  

繰り返しになりますが、柔道発祥国・日本としては、勝つことも大事ですが、正しい柔道を復活させていくということが何にもまして大事であり、そうした考えに従って柔道を世界に広めていく努力が、これからさらに必要ではないかと思います。  

それについては、幸いなことに日本は孤立しているわけではないと思いますし、先ほどエコール・ポリテクニークの学生のコメントを紹介しましたが、世界にも本来の柔道に変えるべきだという考えを持っている人たちはたくさんいると思いますので、フランスをはじめ他の国の人たちと共に努力していく必要があると思います。

柔道の国際的な経営を担う日本

 

これらはいずれも「柔道の国際的な経営」に関わる点ですが、日本が今まで以上に深く関っていくにはどうしたらよいのでしょうか。まずは国際的な活動を強める必要があるわけですが、相手国が非常に多いわけですから、日本として国際的な活動に携わる陣容を抜本的に強化する必要があると思います。  

その点、日本には青年海外協力隊のOBやシニアボランティア、企業で海外駐在員をしている人たちなど、海外で柔道を経験した人たちはたくさんいらっしゃると思いますので、そういう人たちを大勢集めてやっていくということが必要だと思います。そういう活動をするには、柔道の経験や外国語の能力、あるいは国際的な経験が必要になりますが、必ずしもその全てがそろってなくても国際的な柔道の活動に携われる人がいると思いますし、ある程度、言葉ができたり柔道に関心があるのであれば、仮に柔道の経験が少なくても、一定の時間を費やせば何をやるべきか、分かってくると思います。ですから、そのような人たちもできるだけ多く集めて活動していくことが必要だと思います。  

その際、当然、予算も必要になりますが、可能であればそのような人たちにはボランティアとして契約をしていただき、出張費や滞在費の手当をしながら必要な時に活動していただくようにする。そのようにいろんな形で人を多く集め、かつ予算も確保するということが大事だと思います。  

アプローチの仕方として、目的を達するためにはやはり協調が大切ですから、ある問題の実現について反対する国に対しても常に付き合って粘り強く説得することや、同志というか同じ考えを持つ国を探して連携していくことも大事だと思います。  

また、国際試合規則を改正する必要があるような場合には、日本としてどこをどう改正すべきか、それは何故なのかという理由付けを説得力ある形で作らなければなりません。それにはまず、日本国内で議論して明確に色々な意見を集約してやっていくことが必要だと思いますが、これからも全日本柔道連盟で上村春樹専務理事を中心にやっていかれることと思います。  

国際柔道連盟との協力はそれをふまえてのことになると思いますが、国際的な会議ではこれから日本として遠慮なくできるだけはっきり主張することが大切です。どの国も、目一杯に言いたいことを言ってきますから、とにかく日本としてもできる限りはっきりと主張をすること。そのためには、各国に根回しをしたりその材料となるパンフレットやチラシなどを作ってやっていくことも大事ですが、まずはメッセージを明確にすること、そしてそのメッセージを継続的かつ執拗に繰り返して説得していくことが必要だろうと思います。柔道の家元たる日本が繰り返し説得力を持って説明していけば、聞いてくれる国や賛同してくれる国も出てくるでしょう。  

そのためには広報活動が当然重要になりますが、山下泰裕先生のように著名な方が主張を明確にして外国の柔道やスポーツ関係の雑誌に寄稿するとか、日本の柔道界のホームページで繰り返し主張するとか、いろんな方法があると思います。  

それに加えて、先述した選挙はとても重要ですから、ある程度の期間準備をして、出来るだけ大勢の人を動員して繰り返し選挙運動をしておくことが大事だと思います。選挙で有利になるためには、国際交流強化も大事でしょう。また、この「柔道教育ソリダリティー」のようなNPOを含め、これからもさらに全日本柔道連盟全体で多彩な活動を進めていく必要があると思います。  

私も実は今度、全柔連の国際委員会特別員をやらせていただくことになりました。それで先日の会議に出ましたら、やはりさまざまな活動をやっておられることは分かりましが、それでももっともっと広げていく心積もりが大事だと思います。世界にあまたある途上国からは、やはり日本から柔道における協力を求めたい国がたくさんありますから、それらの国々にもできるだけ手当てをしていくことも大事です。  

とにかく相手の国が多いわけですから、内外の人材を集めることが重要で、外務省のOBの中にもやれる人がいるかもしれませんし、外務省がNPOと共同してやる例もありますから、できうる限り活動を広めていくことが大事です。また、途上国で柔道を指導した経験のある青年海外協力隊やシニアボランティアの人たちにも動いてもらって、随時またかつての任国に戻ってもらい、継続的な行動をしていくことも考える必要があると思います。  

先ほどもお話した必須の予算対策については、本当に大変ではありますが、できるだけ企業の協力を得ることも大切になると思います。いろんな国際柔道大会では日本の企業がスポンサーをしている例がたくさんありますから、やはり日本の主張を通すためには、予算集めも含めて外部から知恵のある人たちを集め、日本企業にもぜひ協力してもらうように働きかけるのです。いずれにしましても、これらは生易しいことではないですが、明確な戦略を立てて効果が現れるまで長期的に取り組んでいくことが大切だと思います。

まとめとして

 

以上、簡単にまとめますと、まず「柔道の国際的な経営」に対して、今まで以上に日本として努力を積み重ねていくこと。そして複雑多様な国際社会を相手にするには、日本の柔道界内外から人材を集め、陣容の強化を長期的な視点でやっていくこと。柔道の主導国たる日本としての考え方を明確にし、嘉納治五郎師範の教えである国際的な自他共栄を実現するという精神に立ち返り、主張を明確にして同じような考えを持つ国や団体と国際的な連携を組む努力を続け、柔道を通じた交流、協力を継続してやっていくこと。そしてそれを、長期的な課題として取り組んでいくべきだと思います。  

以上が、私の伝えたかったことです。長時間のご清聴、ありがとうございました。