小川郷太郎の「日本と世界」

私の得意技は抹殺されてしまった 

私はすでに得意技についてこの欄で書いたことがある。最近、全柔連の宗岡正二新会長と対談したが、彼は前三角締の名人である。東大柔道部で一緒に練習した経験から、主将まで務めた宗岡氏の締めは強力であることを証言できる。他方、強烈な大外刈で知られる世界的大選手だった山下泰裕氏と得意技について話してみた際、彼はこう言った。「確かに大外刈りはよく決まった。でも内股もやった。実は、内股ほどは効かなかったが、大内刈がいちばん好きだった。」
ともあれ、今回は私が岡野功先生と話したことを読者の皆様と共有したい。岡野先生は1964年東京オリンピックの金メダリスト、78キロの体重で全日本選手権(無差別)で2度優勝の実績が示すように、幅広く素晴らしい技量の持ち主である。岡野氏は、例えば背負投でも、その瞬間の状況や相手によってそれぞれ異なる、限りなく多くのバリエーションの技を用いる。そのうえ、立って良し、寝て良しの柔道だ。最近のある晩、沢山の盃を交わしながら、先生は要旨以下のように話してくださった。
「私の得意技のいくつかは、もう死んでしまった。ルール変更により抹殺されたのだ。暗殺されたと言いたいくらいだ。最近のルール変更で、結果としていくつかの返し技が禁じられるようになった。大したことではないように見えるかもしれないが、返し技は私が理解する柔道の要素でもあり、私を強くしてくれた技であるが、その一部が抹殺されてしまった。自分は身体が小さかったので、技について一生懸命研究し、大きな相手に対して効果的な自分自身の『後の先』の技を開発した。それらの技は手で相手の脚に触れるものが多かった。自分の身長と体重を考えてそうせざるを得なかった。よく使ったのは、掬投、足取小内、手で相手の腿を抑える左右の大外返などである。これらの技はとてもよく効いた。これらは私の得意技のいくつかであるが、私が勝つ可能性を高めてくれたものである。これらの技は『後の先』という柔道の理に適ったものであり、さらに深い研究がなされるべきである。私が使ったこれらの技のいくつかは、ルール変更で殺されてしまった。そして、それらの技の魅力と面白さも一緒に葬られた。それは私の一部でもあった。柔道のごく一部ではあったが、逝ってしまった。」
先生の声には真に寂しそうな響きが感じられた。そして、個人的なエピソードを語ってくれた。「それでね、ある日、白鵬関(編集者註:第69代横綱。モンゴル出身で、外国人として4番目の横綱。)が私のところにやってきて、『後の先』について教えてくださいと言うんだ。白鵬が『後の先』の重要性と相撲にもそれが重要な価値があることを認識しているのだ!」岡野先生の言外には、今日の柔道界が「後の先」という大事な資産の価値を理解していないことを惜しむ気持ちが潜んでいるようだ。
「技の研究をしていく過程で、私は、相手の反応を誘い、相手が攻めてくるようにするために自分がどう動くか、それに対して自分はどう反撃することができるかということを常に考えて毎日のように練習を繰り返した。この練習では、体捌きにおける自分の動きの自由度を大きく拡げることが課題だった。練習によって、私はそれを自分の得意なものにした。それが私の得意技である。左右の体捌きの完成度を高めることに神経を集中した。畳の上でも、更衣室でも、通りを歩いていても、私はいつも、相手の攻撃をイメージしていた。相手が前に出てくれば私は右の双手背負投で返す、相手の反応により小内で連続技をかける、相手が倒れなければ左の一本背負に転じることも可能だ。また、イメージのなかで、相手にダブルの小外刈をかける。つまり、相手の右足に先ず小外刈をかける、相手は後ろに引く、一瞬待ってからすぐ左足に第二の小外をかける。私の得意技とは、つまり、返し技の考えをもとにした連続技でもある。柔道を理解するにはこうした本来的なところまで身につけるべきであって、単に脚に手をかけることの当否を知ることではない。」「私の得意技は、どれも自分の身長や体重、癖、ライバル研究の結果を考慮したものである。重い相手には、連続技の最後に捨身技をかけることも出来た。得意技とは真に個人的なものである。私の柔道も個人的なもので、非典型的でもある。私が指導する場合に、生徒たちは学ぶのが難しいだろう。各自が自分のやり方と得意技を見つける必要がある。しかし、得意技となる範囲を狭めることは悲劇である。」
様々な状況への適応、体捌きの重要性、柔道の深さの理解、、、。岡野先生の言葉は、私の脳裏に響いている。