小川郷太郎の「日本と世界」  講演寄稿集:年頭雑感 海亀と遊泳:元旦ホノルルで
小川郷太郎の「日本と世界」

(年頭雑感) 海亀と遊泳:元旦にホノルルで

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今年はホノルルで新年を迎える幸運に恵まれた。元旦は日本にいて新年の計を立てるのが長年の慣わしとなっていたが、「世界が終の棲の家」という考えをもてば、一年の計はどこにいても立てられるという気持ちになった。 年の初めの厳粛な雰囲気が好きで、家族と一緒に初日の出を拝みにオアフ島の北東部のカイルア・ビーチに行ってみた。地平線上に昇る黄金の太陽には神々しさが感じられ、思わず手を合わせて祈ったが、それを除けば、日系人の多いハワイでもやはり年末年始の雰囲気は日本と全く違う。「年が改まる」という厳粛な雰囲気はない。ホノルルには金毘羅神社や太宰府天満宮もあるので、そこへ行けば初詣もできるし簡素なお神酒や雑煮が食べられ御神籤もひけるが、そこでも新年の様子はなにか底抜けに明るい。暖かい空気と青い空があるからだろうか。 青い空と心地よい風の中にいると、走り出したい衝動に駆られて毎日のようにジョギングを楽しんだ。ハワイの海は、いつも限りなく碧い。こんなにきれいな色の海は米本土のカリフォルニアにはない。太平洋の真ん中なのだからと納得する。そこで、元旦の午後に、一緒に来ていた長女と少し岩場のあるところを探してショノーケリングを楽しんだ。かつて2年半ほどホノルルに住んでいたころ見なれた馴染みの魚たちの姿を楽しんでいると、娘が大きな声で「お父さん海亀がいる!」と叫んだ。そちらに行って潜るとやや小型の海亀がいる。いつものように前肢を大きく優雅に動かしながらゆっくりと泳いでいる。竜宮城に連れて行ってくれないかなと思い、娘と二人で海の中を覗きながら5分ほど海亀君について海中散策をした。手の届きそうな所に近寄っても亀は逃げもせず悠然と泳いでいる。岩に着いた苔のようなものをついばんだりしたかと思うと、時たま浮上して小さな顔を海の上に出して外界を眺めるかのような仕草もする。 元旦に海亀との邂逅。何となく幸せな気持ちになる。岸に戻ると、白い砂浜には日焼けした大勢の人が泳いだり甲羅干しをしながら本を読んでいたりする。これもハワイならではの正月である。ハワイに来ると東京の生活がうそのようだ。すべてのテンポがゆっくりで、人々の心は限りなく広く、皆が親切で優しい。通りすがりに見知らぬ人同士の間で挨拶したりニコッと笑ったりもする。正月だというのに、ホテルにもとりわけ着飾った人はいない。会えば「ハッピー・ニュー・イヤー」と言い合うが、態々年始の挨拶に出掛けるわけではない。木や山はあくまでも自然のままで、素朴で雄大だ。人間も自然体である。自然のままに自分の心を新たにすれば、「正月」の形式は必要ないのかもしれない。 これまで人生の3分の1以上をヨーロッパやアジアなど海外で過ごした自分には、日本人の生き方を少し変えることが良いと思っているが、ホノルルの新年であらためてその確信が強まった。ハワイでは皆のんびりしているので、こんなゆったりした生活をしていると生産性は低いのだろうと思うと、中には生活を楽しみながら巨額の富を稼いでいるビジネスマンもいる。 基本的生活環境が違うのだから、とてもよその国のことをそのまま真似はできないのは分かっているが、日本のやり方は、政治のレベルでも会社や官庁、その他の組織のレベルでももっと簡素化できると思う。思い切ったことをすることが大事だ。例えば、最近会社などで一週間の何日かを定時退社日と指定して一定の時間になると電気を止めてしまうところもある。それくらい徹底してやることが良い。職場では、出産を控えた若い夫婦や乳幼児を持つ夫婦は必ず法律上認められた産休や育休をとらせることも必要だ。決済方式を抜本的に改め、一つの仕事を大勢の人が関わってやる方式から少数の人に責任をとらせて任せるやり方に変えても、やり方次第で生産性の低下は必ず避けられる。到底無理だと思って変えようともせず、相変わらず周りを見ながら行動する習性から脱却できないでいるのが問題なのだ。徹底して、個人も組織も変えようと思うことが不可欠だ。