小川郷太郎の「日本と世界」

捨身:柔道の美

本誌の編集者は、この号の特集テーマとして「捨身」を選んだ。面白い発想だ。

捨身という言葉は日本では日常的に使われている。私の持っている辞書では、「命を捨てるかくごで事にあたること」と説明されており、例えば「捨身のかくごで行う」などと使われる。だから「捨身」は柔道の特殊用語ではないが、柔道の技として用いられる場合、どういう意味合いがあるか。山下泰裕氏が書かれた英文の著書に次の説明がある。

「捨身は、文字通り自身の身体を投げうつことによる技である。よって、捨身技は最適の瞬間に、また、最も適切な方法でかけないと、自滅行為になってしまう。そうでないと、技をかけた者は直ちに相手に抑え込まれる可能性があるからである。言い換えると、もし寝技に自信がなければ、捨身技を掛けることを躊躇せざるを得なくなるのだ。」

これは偉大なチャンピオンであり柔道の専門家である山下氏の解説であるが、私はこの言葉に関連して別の意味合いの話を披露したい。

去る11月の気持ちのよいある晩秋の夕方、私は東京の居酒屋で数人の柔道を愛する高段者の友人と歓談した。彼らの多くは年齢にかかわらずいまも稽古を続け、柔道の本来の精神が維持され広く普及することを願っている面々だ。皆それぞれ片手に持ったビールのジョッキーや日本酒または焼酎のグラスのお蔭で会話は一層自由闊達なものになる。グラスが空になるとすぐおかわりを要求するので、店の女の子も慌ただしく行き来する。

議論が盛り上がる中で、柔道の現状についての不満が表明された。「勝つための柔道」は、柔道の美しさが失われるなどの弊害をもたらした。たとえば、組手争いが長く続くことや乱取でも投げられるのを嫌って相手にしがみつくことなどがある。投げられて受身をとることが敗北だと考えたりする。柔道とは美しくあらねばならないが、そういう人たちには、受身をとらないで投げられるのは美しくないだけでなく危険でもあるという意識がない。そのような態度は、柔道の規律や原則への理解の欠如であり、また、技の習得を疎かにもする。相手が掛けた技によって崩されるリスクも隙を突かれるリスクもしっかり受け止める必要がある。相手の技の効果を避けるために体を硬直させたり身をよじらせたりするのは柔道ではない。物事にしっかり関わるという意味での捨身の精神が足りないともいえる。捨身の精神はおそらく日本柔道界の指導者にも必要ではないか。柔道クラブなどでは団体戦のことも考えて小さい子供のときから大型選手や体重の大きい者を優遇する傾向がある。その結果どうなったか?私の柔道仲間の見解によると、柔道が美しさを失い、面白みに欠けるものになった。では、それを改善するにはどうしたらいいか?誰かが過激な解決策を唱えた。子供の柔道から公式の試合を廃止してはどうかというのである。そうすれば子供たちは勝ち負けを気にすることなく、柔道の技をより本質的なやり方で身につけることができるだろう。技の真髄と効果的な技能を学べば必要なことはあとから自然と身についてくると主張する。それで十分か、試合が子供にモチベーションを与えることを考えれば試合の廃止は現実的か、との反論も出た。試合廃止は確かにユートピア的考えかも知れない。しかしこの提案は、試合の有無は別として、重要なことは柔道着をしっかり持ち、正しい技を掛け、投げられればしっかり受身をとることを指導者が子どもに徹底させることが重要だということを想起させてくれた。正しい柔道の修習において試合が障害になるのならそれを廃止することも考えうるだろう。そうしたことを指摘するのも我々の責任でもある。全日本柔道連盟は、それこそ捨身の精神で必要な決定を行うべきである。

 先般の南アフリカでのジュニア大会では日本が素晴らしい結果を残したが、この飲み会の仲間たちは、日本男子チーム特に重量級に対して不満を述べた。日本の重量級には世界での競争力を持つ選手がいなくなったからだ。「日本の重量級は、技術も闘争心もないから勝てないのだ」「捨身の気持ちで試合に臨まなければならない」「もっと技術を身につける必要がある」「体力やスピードに勝る外国選手に対し、特に足技などをもっと習熟させる必要がある」等々、ベテランたちは口々に主張する。夜はだいぶ更けてしまった。