小川郷太郎の「日本と世界」

英語が下手なのに外来語マニアの日本人

昔から日本語の中で使われる外来語の数が多いことに違和感を覚えているが、最近益々その傾向が強くなっていることが不愉快でならない。別に、「グローバリゼーション」とかIT用語のように国際的にも定着したことばや日本語に適当な言葉がない場合の外来語にまで腹を立てているわけではないが、身近な日常生活の中でとても使い慣れた良い日本語があるのに態々英語を使うことには大いに癪に障る。

例えば、ハウス、ドロー、ライス、ツナ、マイカー、ドライバー、ドリンク、パスポート、ミュージシャン、アーティスト等々、枚挙に暇がない。英語を使うことによって却ってわかりにくかったりニュアンスが変わったりする場合が多くあるし、そうでなくても凄くわかりやすい日本があるのに態々外来語を使うことが多いからだ。
「ハウス」という言葉は温室という意味に使われることが多いが、それなら「温室」といった方がよほどわかりやすい。普通の「家」として使うこともあるが、「ハウス」には犬に対して家の中や犬小屋に入るよう命令する場合もある。「ドロー」だって、語感がよくないし、初めて聞いたときは「泥試合」のことかと思ったくらいだ。「引き分け」といった方がずっと判りやすいのに何故そう言わないのか。
「ライス」というと日本のお米の美味しいイメージが湧かないし、英語の発音の不得意な日本人が発音するとlice(虱(しらみ))のように聞こえてしまう。中華料理屋などで私が「御飯をつけてください」と頼むと態々「ライスですか」聞き返されるのもアタマに来る。「ツナ」なんて、最初に聞いたときは「綱」のことかと思い、意味が通じなくてキョトンとしたことがある。
「マイカー」などという、「マイ」という言葉を頭につけた合成語にも誤用が多い。あるとき、「この日はマイカーをお使いください」というのを聞いたことがある。「あれ、この発言者の車を貸してくれるのか、親切だな」と思ったりしたが、あとの文脈から察するに、「それぞれご自身の車を使ってください」という意味だと覚った。英語を使ってそういう意味を言おうとするなら、「ユアカー」とか「ユアオウンカー」と言うべきだったのに。生半可な外来語を使うと珍妙なことにもなる。ついでに、「ドライバー」とは最近は「運転者」の意味でつかうことが多いが、このことばには、ゴルフの道具、ねじ回しなどのいろいろな意味があるのだからあえて外来語を使う必要は毛頭ない。
「ドリンク」「パスポート」「ミュージシャン」「アーティスト」だって、それぞれ、飲み物、旅券、音楽家、芸術家などといった方が私はずっと親しみやすく感じる。このごろは「ワイン」という言葉がごく当たり前に使われる。私は昔から「葡萄酒」という言葉に使い慣れているし、「ワイン」は英語では一般的な酒の意味で使うこともあって日本酒を「ライスワイン」と説明することもあるので、いまだに「葡萄酒」という。そうすると、周りから「随分古臭い人だな」という顔で眺められて、とても居心地が悪い。

どうして皆好んで不必要な外来語を使うのだろうか。その方が格好いいからだろうか。私には、良い日本語の語感が失われるだけでなく、外来語の氾濫は日本語の表現力が足りないことを示すようにも思えて情けない気がする。おまけに、NHKのような公共のメディアまでも得々として実に数多くの不必要な外来語を多用しているのだから余計腹が立つ。
先日、NHKニュースで「ネグレクト(育児放棄)」という表現で報道があった。これもふたつの点でおかしい。ひとつは発音で、neglect はどちらかというと「ニグレクト」に近い。もうひとつは、この英語の意味は、単に育児に限らず様々のことを無視したり、やらなかったり、怠ることである。妙な和製英語より「育児放棄」というほうがずっと分かりやすい。NHKは大いに反省して欲しい。

外来語を多用するのは、日本人が外国語がうますぎて話の中に自然に英語などが入ってきてしまうのであればまだ我慢が出来る。しかし事実は逆で、日本人の英語能力のレベルは国際的にけして高くはなく、アジアの中でもかなり低いように見える。そんなに英語を使いたいのなら文章全体を英語で言ってみればよいのに、出てくるのはごく一部の単語だけだ。外国ではあまり通じないような発音で和製英語を多用するより、もっとしっかり勉強して本格的な英語を身に付けてほしいものだ。英語が下手な日本人が日常生活でおかしな外来語の単語を多用するのは滑稽でもある。

大学を卒業しただけでは実用的に英語も使えない人が多いのは、やはり外国語の勉強の仕方が悪いからだと思う。私は高校時代に英語を一所懸命習っていたが、そのときから日本の学校では文法中心に教え、英語の文章を分析して、やれこれは主語だ、述語だ、目的語だ、これが関係代名詞でこの言葉にかかるなどと日本語の理屈を使って英語を教えられた。英語の文章を一体として耳や語感で覚えるのでなく、こまごまに分割して日本語の頭で考えさせる。発音や聞き取りや話し方にはあまり力を入れない。英文を正確に訳そうとするあまり、英語の文章を日本語で頭を使って分解して考えることになるので、それではそのような意味を英語でしゃべってみろと言われても口について出てこない。母国語としてすでに身についている言葉を分析するのならいいが、習い始めの外国語を自国語の頭で分析していてはなかなか身につかない。私はこのような教え方は非常にまずいと思って、文法には余り力を入れず、文章を丸ごと暗記して意味を感じ取る練習を繰り返した。こうした方が、頭で文法を考えなくても自然に英語が文章になって丸ごと出てくるようになる。高校時代、英語弁論大会によく出て「なぜ私は今の英語の教授法に反対か」という題で英語教育法を批判したため、先生には評判が良くなかった。

外交官時代の最後の外国の任地はデンマークであった。デンマークでは、日刊の英字新聞もなく日常的な電話代の請求書などの文書もデンマーク語で来るので閉口したが、他方で話し言葉となると若い人も含め殆どのデンマーク人がさほど訛りもなく流暢な英語を話すことに驚いた。どうしてそんなにうまくなるのか、学校での英語教育はどうしているのかと不思議に思って多くの人に聞いてみた。大多数の人は、過去を振り返るような面持ちで、「そういえば小さいときからテレビや映画で英語の番組を見ていたので自然に覚えたと思う」と答えてくれた。まさに理屈なしに耳と目を通じて自然に覚えたので、発音もいいし流暢なのだろう。「ドイツなどでも英語の映画や番組を見られるのにドイツ人はあまり英語がうまくないね」と私が反問すると、「ドイツ人はドイツ語に吹き替えてみているからさ」との答えが返ってきた。なるほど、そういえば大国はあまり外国語の放送をナマで聞かせていない。日本も大国だからか。

日本では英語教育強化への掛け声は昔からあるが、教授法がまだ抜本的に変わっていない。幼稚園の頃から家庭や学校で英語のアニメや映画をそのまま見せれば、最初はわからなくても子どもは映像で引き込まれ、英語が耳から入って短時間で覚えることは間違いない。モスクワ勤務時代に3歳ぐらいだった私の息子もロシア語のアニメのテレビ番組を毎日見ていて、何ヶ月かするときれいなロシア語を少し喋るようになった。
今日、日本では小学校低学年から英語教育を強化する動きがあり、それに反対する論者もいるが、国語の勉強と英語の勉強は両立しうる。英語の教え方が問題なのだ。耳で聞かせて丸ごと自然に覚えさせるのが良い。日本人の英語下手は、グローバル化した世界で日本人の存在感をますます小さなものにしつつある、国として深刻な問題でもあるのだ。